そういえば京都での禅修行プログラムでもう一つ思ったことがありました。 それは「失敗のデザイン」について。

叱られ方と受け止め方

まず最初に面白いと思ったのは、食事作法 (粥座・斎座・薬石) のルールがそれなりに細かいにも関わらず、初日に15分ほど教えて貰って それ以降情報が得られず、わざわざ「失敗するように」デザインされている点でした。

例えば、器の広げ方、片付けかた、取り分け方、音を立てないことなど。 禅では生活全てが修行であるという考えのため、食事も修行の一環ということでした。

食事の時間になると、何とか記憶を辿りつつ、周りの人の動きを観察して頑張るんですが、 ごく当たり前に「叱られ」ます。許容されず、断固として間違いを指摘されます。

もちろん実際は “体験” のため相当甘めにはして貰っているんですが、正直急な展開に面食らいます。

ここで「怒り出す人」「自分を責める人」というタイプがいる、という話を、初日の心得えの説明の時に聞きました。

仕事と失敗の考え方

近年ではリーンスタートアップやアジャイル、スクラム開発といった、経験学習型のやり方が当たり前になってきた感はあります。時代や技術の変化の速さ、事象の複雑さから予測が困難なため、とにかく「失敗」を「失敗」と捉えずに「改善のための学び、挑戦の証」とする文化です。

少し前に孫 泰藏さんの書かれた「冒険の書」という本を読みました。 これはなかなか面白い本で、「教育」の起源を紐解きながら、今の時代に必要な学びとは何かを孫さんと読者で考えていくようなスタイルになっています。

その中の「失敗する権利」という章が印象的でした。

失敗する権利をきちんと尊重している良い例があります。 禅の修行です。 禅の修行は、期間中に全員が失敗するしくみになっているそうです。たとえば、ご飯を炊いたことがない人にききなり「明日からご飯係になれ」と(…略)命じます。しかし、そんなことやったことがある人はどこにもいません。ですから、最初は必ず失敗して叱られるそうです。 修行の指導や引き継ぎなどはほとんど行われないそうで、ある日突然任命されて必ず失敗する羽目におちいるそうです。「全員失敗させて、試行錯誤させる」。修行がそうデザインされている(…略)。 つくるべきはルールではなく「試行錯誤できて、失敗から学べる環境」(…略)こういう場のデザインを心がけていこうと思います。

— 「冒険の書 失敗のデザイン」より —

「心理的安全性」というバズワードがありますが、僕個人としては「失敗のデザイン」という言葉の方がしっくりきています。もちろん企業では「個人が失敗して学ぶ」ことにいつでもコストをかけられるわけではありませんが、一つの考え方として大切にしたいと思いました。

私生活にて

「怒り出す人」「自分を責める人」がいるということを書きましたが、僕はこの禅プログラム中はどちらでもなく、フラットな状態でいることができました。なぜかというと、人格や性格ではなく必ず行動そのものに対して注意がされていたという点と、自分自身がそれに気づけていたからでした。 また自分がそういった状況で、どのように感情を揺さぶられリアクションするのか、それはなぜかを客観的に観察したいと思えていたからだと思います。

この自分自身を観察する体験は、今後他の誰かを「叱る」ときもとても役立つと感じました。

というわけで、失敗する権利と失敗のデザインについて、とても参考になる体験だったよ、という話でした。