少し前ですが、京都にある臨済宗のお寺で8日間だけ「禅体験」させていただきました。 ほんとに「体験」レベルの触り知識で何かを書けるものはなく、ただ自分がこう見てこう感じた、という程度の感想文であることは、ご了承ください。

坐禅や食事作法、法話、作務と言われる境内のお掃除などを通して、禅の考え方を教えてもらいました。

禅のライフスタイルと、デザイン

マインドフルネスや瞑想でもよく聞く「今ここに集中すること」

坐禅のお作法は、少し高めのザブに座ってお尻と膝の3点で体を支え、 姿勢を正して顎を引き「半眼」で少し先をぼーっと見るって感じです。

この「半眼」もポイントで、目を瞑って思考に潜るのではなくて、現実世界とのつながりを保ったまま「ただ在る」状態に持ってくみたいです。(って言われてもなるほどわからん)

ただ、今、ここに、在ることに集中する。

この考え方は静的な坐禅だけではなく、動的な普段のライフスタイルにも表現されていると感じました。

物事をシンプルに決まり通り、全力で、素早くこなしていくことで過去や未来についてあれこれと思案するスキがあまりないという印象で。食事作法についても、最小限の食器で、最小限の動作、最短で終える必要があります。

例によってジョブズも禅を学んでいたと言いますが、無駄のない動きは本当に良くデザインされていて、ユーザーを「今に集中」させるために、デザイナーに必要な知識なんじゃないかなぁと感じました。何よりそれらの動作や機能美にひとり気持ちよくなってしまって。

「その動き間違っています」と怒られるたびに「ほーなるほどなるほど」と嬉しくなる、ちょっとヤバいやつと化していました。

そのままで十分尊いというお経のリリック

元祖アジアンラップ(失礼か…)の坐禅和讃で、白隠禅師さんというお坊さんの書いた日本語のお経をみんなで読み合わせるタイミングがあります。

出だしが「そもそも生き物みんなそのままで尊いんよ」「それ以上何か求めるのは水の中で喉が渇いたと叫んでいるようなもんよ」という一文から始まります。正直お経って理解できない言葉でまがまがしい事言ってるんだと思い込んでいた僕には結構衝撃的な発見で、大衆向けのわかりやすいメッセージに驚きました。

自分そのもの、カエルの鳴き声、うぐいすのホーホケキョ、いずれも命や生命の表現であり、尊いということ。

これは…言いたい事は分かるが真に理解することは非常に難しい!

呼吸

和尚さんに教えてもらって、最も良かったことは「呼吸」への向き合い方。

「次の呼吸が人生最後の呼吸だと思って、全力で向き合ってください」 「鼻腔の奥に感じる、空気の冷たさを全身で感じてください」

というような事を聞いた記憶で(少し捻じ曲げているかも)、これがとてもよいヒントになりました。普段って呼吸を意識するとしても、腹式呼吸とか、腹圧高めましょうとか、そんなレベルなんだけど、接心という丸一日座禅デーにおいて、1セット40分の坐禅を複数回耐えるにはとにかくひたすら「次の呼吸」をどう行うか、という事に集中せざるを得ない。

その時に、ずっとこの事を意識することで、わりと身と心に定着した感じがあります。

メンタルコントロール

「閑葛藤 (かんかっとう)」という言葉を教えてもらいました。 これは「不要な思い悩み、心配」って意味みたいです。

おそらく一般人向けにだいぶ意訳で話してくれていたんだと思いますが、 過去にああしておけば良かった、未来にこうなるんじゃないか、という思考って確かに考えることは重要だけど、自分が思っているより要らないものだよ、という話だった記憶です。

これは、特に僕は未来について考えすぎてしまう癖があって、まぁ俗にいう「心配性」「石橋を叩きすぎちゃう」ってやつなんですが、禅体験の後に行ったアフリカ・ルワンダ旅において、このメンタルコントロール術は特に役立って、本当に学んでおいて良かったなぁと感じました。

やば…不安が溜まってきたなぁというときは、1分ほど呼吸に集中する事で、いったんフラットにできるため、実は旅中に何度か試していました。

「風の谷のナウシカ」に見る生命感と禅、そして自分

中田のあっちゃんのYoutube動画での知識程度ですが、禅は哲学、思考法、精神のコントロール術として武士に取り入れられていったと聞きます。混沌とした時代、生命とは何かを考えざるを得ない時代に「禅」に価値が見出され、受け入れられた。 僕らも今も同じような時代に生きていると感じます。

あくまで僕個人の考えですが、漫画版ナウシカの最終巻で宮崎駿氏が主張していた生命感について、坐禅を組みながら考えていました。(ほんとは無心になるのが良いらしいけど無理)

ナウシカは 「いのちは闇の中のまたたく光だ」「苦しみや悲劇やおろかさは…人間の一部だから。だからこそ苦界にあっても喜びや輝きがある」 と主張しています。全てが完璧で精緻で、悟りきった神のような存在や世界を否定し、自我や醜さの深淵からくる愛の深さ含めて「生命」であり「それが尊い」というような主張をするんですが、僕も割と似たような思想をもっています。

もちろん「禅」の教えと対立するものではなく、結局本質的には同じことを言ってそうではいるけど、単に表面的に「自我や煩悩はよくない、ニルヴァーナを目指そう」みたいに捉えるならば、少し自分の考えとは違うなぁと感じました。

この辺は、何かの機会に詳しい人と話し合ってみたいなぁ。

「武士道」にあるクエーカーの詩人のことば

最後にもうひとつ、この体験期間に考えていたのが「武士道」という本にさりげなく載せられている詩で僕が大好きな一文。

いずこよりきたるか、花の香り近く 旅人の胸、感謝に満ちて しばし歩みをとめ、帽をとりて はだに天より祝福を受ける

この、何か分からないけれど、ふと、神聖で尊いものを感じ、自分の帽子をとって感謝する旅人。

すべてのものが尊いと考える禅の教えと、どこか似たところがあるなぁと感じました。

…とまぁ良く分からない事をたくさん書いてしまったが、 考え方の選択肢として「禅」に触れてみるのはとてもありだなぁと思った8日間なのでした。

おしまい。