One minute
百グラムの肉の値段とボディシェアリングの話
冷凍庫に眠る鹿肉は百グラム換算でいったいいくらするのか……。一万円は軽く超えると思う
( BE-PAL - エベレストには登らない (角幡唯介) )
「極夜行」という、角幡唯介さんという作家であり探検家の方が書いた本があります。 冬の時期に数カ月にわたり太陽が昇らず、月明かり以外は漆黒となる北極を、犬と橇だけで旅した実話の本で、ずっと「この人はいったいなぜこんな大変な事をしているんだ…」と思いながら、ドキドキして最後まで一気に読んでしまった本です。
この角幡さんですが、BE-PALというアウトドア雑誌にずいぶん長いこと「エベレストには登らない」というシリーズのコラムを書いていて、 最近の号で「オレたちは買い物のために生きているのではない」というタイトルで記事が載せられていました。
百グラムの値段
「生きることの意味、何かをすることの価値は不合理性のなかにある」という一文と、鹿を猟銃で狙う挿絵。 そして、ご自身の冷凍庫にねむる鹿肉が百グラムいくらするのか、一万円は軽く超えるのではないか、という考察が載せられていました。
猟銃や弾丸、移動費や毎年かかる登録料や保険、猟友会費などと、さらに一日中山の中をうろうろして、解体や冷却、丁寧な精肉など人件費として考えてもそうとうなものだそうです。
これを見たとき、勝手に、全く直感的に「食肉がまず目指すべき価格」と感じました。
僕自身は肉は好きで、食事の中心にもなっているので何か言う資格はないけれど、やはりスーパーに行ったときに、一つの生命を奪って得た断片が百グラムたったの数百円で売られている異常さというか、大きな歪みというか、暗黙の狂気を常に感じてしまうんですよね。
畜産の今
専門家ではないですが、農林水産省のデータや、 日本ヴィーガニズム協会さんがまとめてくれた記事を見るに日本だけでも「近年、年間約1600万頭の豚、100万頭以上の牛が食用に屠殺」「食鳥処理数 約8億羽」にも登っているようです。 (東京都の人口がだいたい1400万人くらい)
「獲る 食べる 生きる」という本を書かれた黒田未来雄さんも「You are what you eat」という章で畜産の現状について触れていますが、 それにも大きく気持ちを揺さぶられました。繁殖農家では人工授精を通して、乳の出を良くするために妊娠させる。さらに黒毛和種などの高値で売れる肉牛を代理母出産させるなどの経営手法も存在するそうで、まさに「製品としていかに効率化するか」(これも資本主義の暗黒面なのだろうか)
普通に考えたら非人道的、非倫理的なことをなぜか当たり前として行われている実態。
心理状態としては、戦時に殺人を正当化する心理と近い気がしていて、自分自身が生き残るために理由をつけて、恐ろしいことをしている感覚を意図的に麻痺させている、それと似ているようにも感じます。
犬や猫の殺処分との比較
比較対象として犬猫が相応いかはおいておき調べてみると、大体ですが2021年で犬3000頭、猫10000匹のようです。 近年大きく殺処分数を減らせたようで、多くの寄付や保護団体が頑張ってくれていて本当に良い成果だと思います。
一方で、1600万というレベルが違う数の豚が、製造(=飼育)され、組立ライン(=屠殺や解体)を経て陳列され、廃棄される。 愛玩動物や人間との生命の価値の差と、畜産動物が一種の工業製品と同等の扱いを受けて良い理由をどうしても見つけられずに悩むことが多いです。
ただ、そういったすぐに答えの議論をしたいのではなく、単に人間は過剰にやりすぎてしまっているという違和感の話です。
牛から人間に戻れなくなったボディシェアリングの話
少し前に「ボディシェアリング」に関するYoutube動画を見て衝撃をうけました。 玉城絵美さんという方の研究で、茂木さんとの対談。これめちゃくちゃ面白かったです。
細かい話は書きませんが、ボディシェアリングの装置をつけて「乳牛」を仮想体験したあとにしばらく人間に戻ってこられなかったという大変興味深い話がありました。被験者となった複数人の男女は装置を外した後もしばらく立ち上がれずに、時間をかけて少しずつ言語や人間であるというアイデンティティを取り戻す必要があったという部分に特に引き寄せられました。
「体験共有」を通してして対象の身体性を体験し、見え方や痛みを自分のこととして理解することができるという可能性について、考えさせられるお話でした。もしも「屠殺される体験」などしたら、おそらく一生のトラウマになるのだと思いますが。
引用されていたPivotのマルクス・ガブリエルの対談も大変興味深いもので「痛み」と「権利」に関するものでした。「倫理的資本主義が金儲けを一変させる」の話とかおもしろすぎるんだけど、話が逸れるのでまた別の機会に…。
自分はどう考えるか
あくまでも個人的な意見として。
食育として、やっぱり自ら屠殺を体験して、自分で今後も肉を食べるかどうかを判断していくしかないと思うし、それが一番の近道だとは考えている。 仮に人類の半分が肉を食べない選択をし、残りの半分も大きく消費が減った場合は、そもそも産業として成り立たなくなるのではないか。
もう一つは、価格を上げて消費を抑えるという方向性について。 それでも食べたいという人は、百グラムに一万円を払って食べればいいし、なんとなく「一年に一回の記念日」にうまくハマる金額に思えます。 伝統的な民族が、特別な祭りや客人をもてなすときに食べるという感覚とも合いそうです。
そして、ボディシェアリング。 黒田さんも「肉を食べ続けると決めたのなら、食べられる側の立場にもな…る義務があるであろう」と言及されている通り、 屠殺体験とまで言わずとも、自分が動物側になるという体験を経て判断するという方法も、全く新しい観点として可能性を秘めていると感じました。
まぁただ、今日もスーパーで特売されていた豚ロースやハンバーグを食べた僕は、この先どう考えていくんだろうな。